台風明けのきのうは一転、穏やかな薄雲日和。13日、盆の入りにつき墓前へと出発。トリス(ウィスキー)の4ℓボトル6本に満タンの水を充填。デッキブラシ他諸々をカートに載せてヨメちゃんと押して引っ張って。。墓は丘陵墓所一番の頂き。長く急な坂を苦行の如く、ふたりとも息も絶え絶え5m歩いては休み、3m歩いては休み。。亡き父が何故にこの様なテッペンに墓地を所望したのか。・・さかのぼること50有余年前。気仙沼の湾奥が一望できると言うことが気に入って決めたもの。しかし、それから長い年月が経った今、自慢であったはずの眺望は、うっそうとした木々にすっかり覆われてしまい見る影もないものとなってしまった。
竿石に刻む金の梵字は真言密教大本尊”大日如来”を符している。説く処のひとつに”己の可能性を見い出すべく信じ切る”がある。そのためには今風に言えば”あきらめない”、”投げ出さない”、”逃げ出さない”。ことが大事だとも。小生の場合これまでの人生、反してダメダメの”すぐあきらめる”、”すぐ放り出す”、”すぐ逃げる”。の楽チン3点セットで生きてきた。加えて”人には甘く、ついでに自分にも甘く”、、”一事が万事”こんな調子なので何事も救われるハズが無いと言うもの。...本題に戻り、、今年は両親の併修回忌年につき卒塔婆を立てて供養。竿石の右手に並ぶ石像は父に模して造った”菩提薩埵(ぼだいさった)”で、その手に包む念力石の”摩尼宝珠(まにほうじゅ)”には安寧を遍く照らす想いを込めている。南無遍照金剛、南無興教大師・合掌