続編;)続いて段ボール箱を開けると、思い出の衣類や品々が続々登場。見る物見る物、ん~、またしても断捨離には厳しいものばかり。。─思い出にふけるべく、品々数点にまつわる話を少しヒモ解いてみたい。
....3.11震災から5ヶ月後の夏、気仙沼小学校の校庭で”中西圭三(敬称略)”の支援チャリティーライブが行われた。その日は酷暑。ジリジリとする炎天下の中、ステージの彼は真冬のようないで立ち。。「夏服を忘れたわけでも暑くて頭がおかしくなったわけでもないですからね。これ、一張羅(いっちょうら)のステージ衣装なんです~。」そんなトークで笑いを誘っていた。


大量の汗をかきながらステージを降りたところで小生、恐る恐るシャツの背中にサインをせがんだ。「今日、俺の誕生日なんです。思い出に残る最高の日になりました。」って伝えたら、手を叩いて自分のことのように喜んでくれた。で、肩に手をかけながら書いてくれたのがコレ!お疲れの中での神対応、めっちゃ感激したぁ。

ちなみにこの日、中西圭三に先立って最初のステージは、”May.J(メイ.ジェイ)”。この頃の彼女は、まだ無名であった。DJ.ヨロシク、アップビートのヒップホップミュージック炸裂のはじけたステージは圧巻だったが、聞き馴れない音楽に年寄りは皆、目を丸くして固まっていた。そんな彼女を一躍有名にしたのは、その後のテレビ番組、”関ジャニ”のカラオケ対決で連勝し、NEW歌姫誕生!と、一気にブレイクすることとなった。
.。o○それにしても、この頃の小生、ムチムチ。。それもそのはず、体脂肪は計測不能。今より体重が20kgも多かった。右横は中西圭三。スタッフとの話が終わって、去り際に恐縮しながらハグをお願いしたら速攻でガバッ。ほわ~~、ほのかなムスク(?)の甘い香りでもう、恍惚.。o○。。

断捨離の話はどこへやら。。衣類の回顧録をもうひとつ。。今度は震災の翌年夏、伊勢ヶ濱部屋の伊勢ヶ濱親方(現在は、元横綱・照ノ富士が親方を襲名)を始め大関・日馬富士関(のちに横綱)、関脇・安美錦関(現・安治川親方)、幕内・宝富士関と部屋の看板,関取力士が気仙沼小学校の体育館へ慰問にやって来た。小生、四股名(しこな)が”安馬(あま)関”の時から日馬富士関イチオシの大ファン。優勝した時の画像を印刷して持参し、サインと握手。感激のあまり、この時とばかり握った手に、つい力を込めてしまった。「おぉ、ずいぶん強く握るね。」と言って呼応するようにグッと、強く握り返してくれた。その野太い手の感触は今でも鮮明だ。写真、奥手から宝富士関、安美錦関、そして手前の日馬富士関と絶壁頭の小生、ガッチリ握手でご満悦ショット。

慰問会の後、小生が住む”気仙沼中学校・仮設住宅”が建ち並ぶ野外土俵に場所を移して日馬富士関と宝富士関による少年相撲教室が行われた。安美関は軽い腰痛のため、お役御免とばかり、離れた所でひとり、うちわで涼をとっていた。そこで小生、そっと近寄って着ていたシャツの背中にサインをお願いした。(昨年に続き、またしても)”今日が誕生日”だと言うことを伝えたら「あ~、いいよ、どれどれ。」快く応じてくれた。シュッ、シュッ、書き終えたとたん、手にしていたマジックで脇の下をくすぐられた。「あ~、ごめん!手がすべっちまった。」なんて冗談を言ったりして、とても親しみやすい安美関。たわいもない雑談の中、印象に残ったのは、梅干しが苦手だと言うこと。意外な一面が知れて、ちょっと得した気分になれた。安美関、渾身(?)のサインはコレ!

衣装ケース、段ボール箱の中身を広げては思いにふけり、結局ほとんど処分できずに、またまたしまい込む始末。あ~ぁ、どうなることやら...チャンチャン。