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3.11その後

昨年のブログで、👉『14年めの3.11』と、題して、自身の経験談を回顧録として記した。毎年やってくるその日だが、正直、あまり思い出したくないこともあって、過去には多くを触れてこなかった。が、やはり一度は気持ちに整理をつける上でも記録や思いを綴り、残した方が良いのではと、心持ちを変え、顛末等々を書き留めたものである。

....で、今年は『3.11、その後』と、題し、また少し角度を変えてあの時を振り返ってみたい。

当時、被災した多くの人たちは日々の暮らしに追われながらも生活の再建に目途が立たず途方に暮れていた。小生もご多分に漏れずその一人。被災後、妻と子供たちは丘陵地にある妻の実家に身を寄せていた。片や小生は母と母校である気仙沼高校の体育館で避難生活を送っていた。母は「義父母に気を遣わせたくない。」と、誘いをかたくなに拒んだので心ならずもその様な事になっていた。そんな生活を送る中、市の環境課では嘱託職員を1名募集しているとの情報を得た。当日、役所の面接会場に出向くとこれが結構な人数。なにせ震災直後のこと、ネクタイを締めている人などはいなかったが、仮にも面接なので皆、身なりはそれなりにきちんとしている。そんな中、小生のいでたちはと言えば、かかとがせり出すほどの小さいサンダルに穴の空いた靴下からのぞく親指。知人からいただいた着古しのヨレヨレジャージに薄手の黒ずんだヤッケを羽織っていた。今思えば、あの格好はどうみても浮浪者だ。その時にはそれが精いっぱいだったので仕方がなかったにしても、さすがに周囲の視線が痛く、ただただうつむいて順番を待った。結果は自分でもびっくり、予想だにしない1名枠の採用をいただいた。決めては、ひょっとすると一番悲壮感が漂っていたことで同情を誘ったのかもしれない。そうならば世の中何が幸いするかわからない。

─ところで、環境課の仕事は多岐にわたるが、主たる業務は斎場での火葬。当時は火葬がまったく追い付かず、棺に入った御遺体は一時的にすべて土葬されていた。斎場の下った所、それこそ校庭の倍ほどはあろうか、通称”緑の広場”には、おびただしい数の棺が埋められた。何しろ気仙沼市では1,200名が津波で命を落とし、加えて関連死は100名を超えていた。棺は重機で順次掘り起こして御遺体は新しい棺に移し替え、一日最大6体の御遺体を火葬する。夏場になってくると、御遺体尊厳の観点から詳細は割愛するが、現場は誠に持って筆舌に尽くしがたい。

さて、勤務から1年も過ぎる頃になると掘り起こしの火葬も落ち着き、火葬の無い日には斎場の庭の手入れ作業などを行った。気分は、なんちゃって庭師だ。脚立やハシゴを立てて枝の剪定やら形を整える刈込やら。時に毛虫がバサっと腕に落ちてきた日にゃぁ、もう白目むいて悶絶。また時には足元に忍び寄ってきたヘビに腰が砕けておののいたりと、何かと刺激のある日々であった。ある日の炎天下には広い斜面の草刈りをしていて初めて熱中症になり、意識が遠のく経験もした。すぐさまパンツ一丁になって大の字になったところに同僚が全身にホースで水をかけ続けてくれ、その時にはなんとか事なきを得た。

それから一方、環境課の業務には犬の予防接種のサポートなどもあった。市内の各集合場所を時間通りに10か所ほど回る。小生の受け持ちは市内でも南の方、大谷地区から津谷方面にかけて。作業は軽自動車から長テーブルや椅子を降ろしての設営、そして案内や誘導。併せて犬のいさかいやウンチの監視、その他雑事全般。獣医さんがスムーズに効率よく摂取できるよう何かとお世話をする。慣れてくるとこれが結構楽しいものであったりする。今思えば、それまで全く知らなかった世界を垣間見れて良い社会勉強になった。

この頃は大病を患う前だったので体型ムチムチ、はっきり言って肥満体。現在よりも実に20kgオーバーだ。支給の作業着は勿論の3L、満面の笑顔もご覧の通りパンパンだ。。

─そうして次のステップに向かうべく充実した2年弱の勤務を終えた。この間、生活を維持できたことに対しては本当に感謝しきれない思いでいっぱい。最終日には採用面接官だった参事、課長他、環境課のみなさんに方に盛大な送別会まで催していただいて恐縮しきりであった。たかだか嘱託職員の身分なのに(涙..)